先輩


懐かしい先輩。高校時代、世話になった先輩。見知っているはずの先輩を発見できなかった。久々だったのだ。歳をとったのだ。もちろん自分自身もだ。ほんの数メートルの距離にいたのに。相手が女の子だったら、何年ぶりだろうと見過ごすことはないだろうに、たぶん大丈夫だと思う。きっと大丈夫だ。

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やさしくない雨が今日もまた落ちているから

私の妄想は、いつもの通り、あの雨の日の椎名町へ飛んでいく。記憶はどんどん上書きされて、登場人物達は細部まで復元されている。それが正しい記憶なのか、ほかのそれらと同じように自分に都合のいい部分だけが強調されているのか、書きかえられているのか・・・いやきっと書きかえられて脚色されているに違いないのだが。彼はあの頃の歳であのときの服装だし、彼女もまた、あの歳のあの彼女だ。あの日の椎名町の駅舎の景色は、私の中で何度も繰り返されるのだ。椎名町の駅舎を思い出させる雨の降り方がある・・・とでも、表現すればよいのだろうけれど。

友遠方より


歳取ったなあ。お互い様だ。僕は彼のことが嫌いだったし、彼のことを理解もしていない。彼は僕のことが嫌いだったし、彼は僕のことを理解しようとしたこともない、はずだ。けれど僕は彼のことを[ヨシ]としたし、彼は僕のことをヨシとした。もしかしたら二人の命があるうちに会うことはもうないかも知れない。格好つけて言うならば・・・だ。
楽しい時間を過ごした。

島君は車でやってきた。

旧友の突然の病の見舞いに来てくれたのだ。だから、久々に飲んだのだ。うまい酒だった。翌日。撮ってあった長いドラマの最終回を観た。倉本聰だ。中島みゆきの歌を聞いて、吉田拓郎の曲も聞いた。だから,久々に吉本隆明の全詩集を引っ張り出した。一番好きなのは一番最初に載っていて一番最初に書かれたはずの【固有時との対話】だ。長い詩だ。要するに脈絡がないのだ。僕には脈絡はないのだ。

僕は園田まりこさんが好きだったからクラシックのコンサートにしか行かなかった。

いつも隣の席でおもしろくもない歌劇なんかを観ていた。けれど、僕はあの日は吉田拓郎のコンサートに行きたかったのだった。でもそれは不良のすることだったし、家の許可も学校の許可も出なかったのだ。実際に許可が必要だったかどうかはわからないのだけれど。とにかくそう思っていた。翌日、女の子がたくろうのコンサートがどんなによかったかを話してくれた。彼女は不良ではない。拓郎は「りんご」を歌ったのだそうだ。はじめての鹿児島でのコンサートだったのだ。僕は彼女が「拓郎のコンサートについて僕が知りたがっていること」を知っているのか不思議だったし、第一そんなに中のいい友人ではなかったはずなのだ。彼女は違うクラスの女の子だったし、僕は転入生だった。彼女の名前すら今は覚えていない・・そんな友人だったのだから。数日後、僕は録音状態の決してよくないラジオ放送で、その拓郎のコンサートの「りんご」を聞いた。
拓郎はあの頃、もう僕のスターだった。そのことは人に話してはいなかったけれど。もちろん、モーツァルトよりビートルズより好きだった。

ドラマ「やすらぎの郷」は週一で総集編までやっている

何もかもが特別扱いの倉本聰の作品は・・やっぱり彼にしかかけない。ずっと昔、島君は言ったのだ「山田太一はめざせるけど、倉本聰にはなれそうもない」。もちろん山田太一にだって僕らはなれないけれど、彼もまた優れた脚本家なのだけれど。倉本聰は別格だ。完璧だとは言えない。彼のつくる舞台なんて隙だらけだけれど、テレビドラマに関しては「彼にしかできない世界」がある、確かにある。

全力疾走の意味を知らなかった

僕は小学生の頃、全力疾走の意味を知らなかった。頭が悪かったのだ。運動会の徒競走は手を振りながら走った。一等とか二等とか何なのか意味がわからなかった。僕には意味がなかったのだ。中学生になってバレーボール部で走らされた。自分が走れることが気持ちよかった。中2でリレーの選手になり、高校生では100m走の記録を持っていた。100mの全力疾走は気持ちよかった。たぶん2.3年間だ。そしてその後は全力疾走をすることがなくなった。今、もし50mの全力疾走をしたら、できたとしてもおそらく倒れてしまうだろうと思う。
話がそれた。500mは100mの五倍だし、その倍で1000m、1kmだ。だから僕は1kmを目測で測ることができた。1kmを認識することができた。今、僕に認識できるのは5m、せいぜい7.8mというところだ。歳をとったのだ。狭量なのだ。いや、それでも話がそれている。僕は田代幸のことを語ろうとして話を始めることすらできずに苛々する。
僕は昔、全力疾走することの意味を知らなかった。